南方録と立花実山2

南方録偽書説の経緯について。

貞享三(一六八六)年の秋、主君である黒田三代藩主光之が参勤交代で江戸に上るのにお供をした折、瀬戸内海の蒲刈という所に停泊していたところ、「京都何某方」から船中に宛て書状が届いた。
「利休秘伝の茶湯の書五巻を所持する人がある。それを密々に写し取ってあるので、お望みとあらば写して送ってあげてもよい」という内容で、見本としてその一部分と台子・大規矩・小規矩の図が添えてあった。
(略)
京都伏見に着くとさっそく今年中に写しとって欲しい旨依頼した。
翌年正月、江戸桜田の屋敷へ十二月中に写したとの添状とともに約束の書が届けられた。

というような経緯が実山の「岐路弁疑」にある。

では偽書説とはどういうものか。

実山は原本写しを入手した経緯をこのように説明しているが、近代に入って茶道の研究が盛んになるにつれ、「南方録」の成立について多くの疑問が提起されるようになってきた。
主な疑問は次のとおりである。

(1)「京都何某」が船中の実山に手紙を送るのは、唐突で不自然である。
(2)後の二巻については納屋宗雪という持ち主の名が明記されているのに、前五巻には「京都何某」としか書かれていないのはなぜか。
(3)宗啓の原本が未だ発見されていないのはなぜか。また宗啓が実在した人物か否かは疑わしい。
(4)この書の写本の元を順次たどっていくと、ことごとく実山に到達し、それ以前には遡れない。すなわち実山と原作者宗啓との間に百年の隔たりがあるのに、宗啓から実山に渡るまでの間に他の伝承者が全く介在していないのはなぜか。
(5)「岐路弁疑」は実山と衣非了義との間でやりとりされた書状から成っているが、一緒に「南方録」を読んだ間柄であるのに、わあわざ書状で先に述べた原本入手の経緯を知らせているのは不自然である。

(1)に関しては、「岐路弁疑」の記述しかよすががない。
(不自然な)入手をした、という実山の告白に関し、不自然である、という部分を信じて入手をした、という部分を信じないのは恣意的に過ぎる。

(2)に関しては、別にええやん、としか思わない。書く人の勝手やろ?

(3)に関しては、宗啓の原本が発見されていないのは「散逸した」でいいと思う。
宗啓が実在したかどうか、という話に関しては、当時の会記に全然出ていないのは不自然だが、それを言ったら粟田口善法だって実在が疑われてしまう。
キリストだって聖書にしか出てこないんだしな。

(4)は江戸に届いた写本原本すら見付からないのはいかがなものだろうか?
あと実山自筆本の奥書にそれ以前の書写履歴が残っていないのも微妙か。


南方録は「利休の弟子の南坊宗啓が書いた利休茶道についての書」ではないというのがまぁ最近の解釈。
「利休の弟子という設定の架空の人物である南坊宗啓に仮託して実山が書いた利休茶道についての書」という線で見ていると思う。

(5)を疑うのならば「「利休の弟子という設定の架空の人物である南坊宗啓に仮託して実山が書いた利休茶道についての書」という設定で後世の人が書いた書」という方が自然じゃなかろうか?

つまり笠原道桂あたりが親戚で謀殺された立花実山が以前入手した書なんだ、という設定で江戸でひろめた自分の茶書で、「岐路弁疑」あたりも補強用に書いた添付資料だと思った方が自然な気が…。

それなら福岡でなく江戸で流行したのも説明できるしね。