詩集利休2 千利休

著者は1950年にお亡くなりになっているので著作権は切れている。
なので全文引用を行うよ。

千利休


一滴の露の中に遠い山波が數へられる
一座の壷の中に 水々しい空が 波涛の響を鼓の音のやうにかくしてゐる
日本の味爽が 柝を打つやうに 明けやうとする


雁の汀 鷺の渡頭
白い風は 落葉をひるがへらせて
敬虔と 寂玄と 雅潤の經營


雪 冬意の拇印のやうな雪
雪景が 利休の心を飛び立たす
終るところのない物語を書くために
盡くることのない大音聲を告げるため
雪のうへのかなしき雨
二つの矛盾が 一つの調和の世界で 嫣然と微笑する


けふも粛々と登城してゆく
永遠城へ向つて 長い長い露地を
彼は見た 天に振る臨在者の右手を
大海原のうへに 燕の群旅を霞めつつ移る季節の相貌と 玄秘と 默示を
「不觸」の眞理が 潜りしことなき關門の花新しく發想を呼ぶのを
大道耿々として獅子 虎 豹 龍 麒麟薄暮の擧作を


參宿より來る金色のしづけさと 寂しき雫
大伽藍のこころが 容膝の茶室の中に眠る
誤謬なき方寸が 永遠の美の諧調の中で歌つてゐる
力學の騎士が 美學の姫を勝ちとり
古典の海に 洗心の新月が射し出る


動作が鞘から出ると 豐な詩の衣装を纏ふ
作為を斫つて 技巧と虚偽の斷崖を埋める
蒼凉の竹林が月明で 水音をめぐらせて押し默つてゐる
經よ 小徑よ いづこへ夢見る現實者をしるべしてゆかうとするか
さびしい 誰も なにも言つてくれない
ものを言つても ものを言つても消えてゆく 消えてゆく 月が一つ
無際限に懸る帷幕を開く術は止んだ
かかる時 忽然と顕現するもの
彼は 寂寥の極地に うまるるものを見た


房室の中に嚴然として坐してゐる僧形がある
灯が一つ 醒めてゐる
姿のない跫音が近づいて
その灯を吹き熄した 途端
黒白も分かぬ中の人の心に
部屋全體に火が點いた
中有に火が點いた 夜櫻のやうに火が點いた


かなしい 清々しい
さびしい 樂しい


素々たるうちに一點の艷移
わびしいが 潔い
魂は よろこびの膏を注がれて翔ぶ
幽又幽 玄又玄なる心祭


出でて見よ 風ならず 日射ならず
雨脚ならず 露ならず
けふも門口を訪なふものはなきか
一人の永への巡禮者が默然と 客の中に混つて 待ちわびてあり

長い。無意味な美辞麗句の無駄な集まりだ。そう思うけど、でも「お茶は総合芸術だ」なんていうなら、これだって包含しなきゃ、なんだぜ?


さて、斎藤はどう利休をとらえていたのだろう?
先に言っとくが俺に詩想はないんだぜ。


「一滴の露の中に」の連。
イメージ的には朝茶っぽい。

「雪」の連。
「二つの矛盾が」の二つの矛盾とはなんだろう。
矛と盾で、一つの矛盾である。
「一つの調和」と言ってみたいが故に、矛と盾で二つの矛盾と言ってみたのだろうか?

「けふも粛々と登城してゆく」の連。
たぶん、朝顔の茶事の席入りだろう。

「參宿より來る」の連。
この部分全体が、特に「誤謬なき方寸が」の部分が、あきらかに曲尺割礼賛である。


ここまでが利休の「成果」を讃えた部分。
次の「動作が鞘から」以降は、利休本人を語る部分。

斎藤は利休を孤高の、情熱家として捉えていたように思える。そしてその名は永遠であると。


ただ斎藤は利休をシンプルで無駄を削ぎ落す人としては考えていなさそう。
なにせ「豐な詩の衣装を纏ふ」んだもの。
まぁ言葉を減らすと詩にならないもんな。ある意味詩というものの限界かもしれない。