歴史

九谷焼 吉田屋

加賀藩の支藩、大聖寺藩。昨日のリストにある長流亭は、この藩の藩主休息所である。そして大聖寺藩の領地に、九谷はある。 九谷焼の吉田屋は、大聖寺藩の支援の元、古九谷の再興を試みた。 文政の近辺では前田利以などの茶人大名を生み出した大聖寺藩。加賀…

宗旦は左利きか?

burieさんの質問への回答、長くなったのでエントリで。 槐記には、千家が左服紗にしていた理由は「宗旦ガ左ナル故」と書いてある。この「左ナル故」を「宗旦が左利きだったから」と解釈する事もできるが、私は「宗旦が左付けしていたから」と解している。 な…

麟閣その2

麟閣について、中村昌生が「茶の建築」で以下の様に書いているのを見つけた。 私は特に少庵らしい独創に基づいた表現をこの茶室の中から発見することができなかった。 また織部によって燕庵形式が成立されたのは慶長年代にはいってからのことであった。 その…

麟閣

会津若松市に麟閣という茶室がある。これも変型燕庵形式の茶室である。 鶴ヶ城公園の公式ページ: http://www.tsurugajo.com/rinkaku/index.htm 間取り的には少庵深三畳ではなく、明らかに燕庵形式。 公式ページによると、千利休の切腹後、蒲生氏郷に匿われ…

八窓

「八窓」の名を持つ茶室は、基本的に燕庵形式かその変型である。 紹鴎四畳半。利休二畳あるいは一畳半。こういった室町/安土の茶室に比べ、江戸時代の燕庵形式は何故人気が出たのだろうか? 私の推測。一つは、適切な収容能力があること。燕庵三畳台目と利休…

茶室の遺構

「八窓」の名を持つ茶室に、以下の四つが有る。 名称 都道府県 所在地 作者 移築元 八窓庵 北海道 札幌市中島公園 伝小堀遠州 長浜八幡宮 八窓庵 奈良県 国立博物館 伝古田織部 興福寺 八窓席 京都府 南禅寺金地院 伝小堀遠州 八窓軒 京都府 曼殊院 ? …まぁ…

台子

「台子は道の秘伝」と久保権大輔は言う。茶の湯が東山で発生し、台子飾りもそこで発生したものであれば、初期茶道は本来台子を使って行うものだった筈だ。みんながしている事なら、秘伝でもなんでもない。だが、実際には「台子は道の秘伝」みたいになってい…

珠光小茄子

山上宗二記に以下の記述がある。 珠光小茄子 信長公御最後時火ニ入同失申、 カントウノ袋ニ、四方盆ニ居ル、 此壺珠光所持後播州ヘ渡ル、 (中略) 従本願寺三千七百貫ニ宗瓦取、宗瓦ヨリ信長公ヘ上、 (後略) 珠光小茄子は本願寺から宗瓦が3700貫で購入し、信…

君子遠庖厨也

「男子厨房に入らず」という。昔、斉の宣王が、王の資質に関し孟子に質問した。 それに対する孟子の「(食材が死ぬのをみて忍びない気持ちになっちゃうのはまずいので)君子遠庖廚也」という言葉が元になっている…んだそうだ。男尊女卑的思想の発露とされてい…

光秀と鷺の絵

天王寺屋会記の宗及他会記の天正八年に、以下の注釈が有る。 南都逗留中 このとき、光秀は瀧川一益とともに大和検地奉行として奈良に下向、宗及は光秀に随行した。 実際、天正八年の宗及他会記には 同九月廿一日 於坂本、三宅弥平次 口切 (中略) 同九月廿六…

小壷狩り

信長は、堺の町衆から(一応有償で)名物を狩り集めた。まぁそれはいいだろう。 飛騨の大名、金森可重(宗和のパパ)は、領地で小壷狩りを行って出雲肩衝を手に入れた。これもまぁいいだろう。飛騨に金持ちがいなかったとは言えないしな。それを聞いた細川三斎も…

箱と箱書き

茶杓は、慶長年代あたりまであんまり大事にされていなかったんじゃないか、という話を昨日書いた。 論拠の無い印象だけだけど。 でも。考えてみると、道具に箱を付ける、という行為自体、慶長年代あたりまであんまり盛んじゃなかったのかもとか思いはじめた…

名物召し置かれるゝの事

信長公記の永禄十二年の「名物召し置かれるゝの事」の項にこうある。 然而信長、金銀・米銭御不足なきの間、此の上は、唐物天下の名物召し置かるべきの由、御諚候て、先、上京大文字屋所持の一、初花。祐乗坊の一、ふじなすび。法王寺の一、竹さしやく。池上…

茶人一休

伝承では、珠光は一休の所へ参禅し、眠かったので茶を授かった事になっている。禅が眠かったから…というきっかけは少々どうか、と思うが、それはともかくとして、一休が茶を珠光に教えた、というのであれば、茶の湯の始祖は珠光ではなく、一休に遡れないだろ…

♪でもメンバーには諸説あるんだ

利休七哲。蒲生氏郷とか古田織部とか、利休の高弟七人を言う。初出は江岑宗左が言ったことらしい。人によってそのセレクションは違うけど、基本全員お侍。利休から台子を習った七人衆がベース、という事になっているけど、それ自体結構怪しい気がする。 第一…

道安と少庵

茶道古典全集の宗達自会記、天文十八年正月廿三日朝の会記の宮王三郎の注釈にこうある。 同三郎 名は鑑氏。右衛門の弟。千紹安の父といわれる(四座役者目録) 紹安は道安の事。紹安も少庵も音はおんなじ「しょうあん」なので混同したのだろうか? ただ、茶道…

茶の湯はいつまで廃れていたか

熊倉功夫の著作「昔の茶の湯今の茶の湯」にこうある。 その苦しい家元があったからこそ、お茶がふたたび復興する時代がやってくるわけです。 この復興する時代は、だいたい明治三十年代からはじまってまいります。 熊倉さんの史観では 明治20年代まで茶の湯…

献茶

献茶。 家元さんとかが、神にお茶をお供えする、厳粛な謎儀式である。 でも、この儀式、いつごろから始まったのだろう? なんとなく、最近、という気がする。 つーか、明治以降?日本がサムライの国でなくなって、各藩茶堂が大名から禄をもらえなくなった後…

交趾

交趾、という名称について、後漢書に由来があった、という記事を読んだ。http://d.hatena.ne.jp/T_S/20101226他の方のブログなので引用はしないが、大変勉強になった。こういう豆知識をさらっと茶席で披露できる茶人になりたいね…あ、駄目? しかし、倭とい…

利休のイメージ

同時代の山上宗二記。一世代後の茶道四祖伝書と長闇堂記。さらにその一世代後ろでの伝聞の茶話指月集。このころの利休イメージは、割と共通していると思う。 人に厳しい お金に厳しい…というか汚い 性格悪い 権力指向 でも工夫をいろいろした そして: 利休…

市場

大正時代、いろんな茶道具が市場に出回り、いいものは値が上がっていった。しかし、一般茶人が茶をやるにも道具は潤沢にあり、安かった…と佐々木三味は言っている。茶は盛んで、道具は買いやすく、買えない道具も頻繁な入札会で拝見でき、場合によってはいい…

バブル

御所丸茶碗“夕陽”の落札価格が約11万。その年、大正14年の日本の一般歳出が15億。 つまり国家予算の0.007%で茶碗一個が落札されている。現代でいうと、国家予算が100兆として、その0.007%って70億円に相当しますよ?ま、米価換算だと1億1000万だけど。この辺…

宗旦と弟子

末宗広の茶人系譜には、千宗旦の弟子が列挙されている。 息子を除くと31人。そんなかでお金持ちそうな人を挙げてみる。 藤村庸軒 呉服商 松尾宗二 呉服商 京極高広 丹後宮津城主 石川自安 犬山城主の子で商人? 吉良義央 三河幡豆郡領主 壁庵 尾張徳川家侍医…

南方録に於ける茶禅一如

南方録は、茶の禅に対する優越を書いた書物である。私はそう考えている。でも、いったいなんでそんな事を書かねばならなかったのだろうか? だって、禅の権威が失墜していたわけでもあるまいし、「茶は禅の一部である」という方が保護され感もあって、ずっと…

南方録は誰が書いたか?

南方録は偽書である。 …まぁそれはいいよね?では、誰が書いたのだろうか?ちょっと考えてみよう。 立花実山自身が書いた 立花実山以外が書いた。 実山は偽書と知らなかった。 実山は偽書と知っていた。 まぁこの3通りしかないと思う。 私は立花実山が書いた…

もし南方録がなかったら

南方録は、300年ちょい前頃、利休百回忌の頃に突如世に出た本である。世に出た、というのは間違いで、実はこっそり世に浸み出した、という感じ?立花実山が「いやぁ、こんなの手に入れちゃってハハハ。秘密守れるなら写していいよ」とか身内で楽しんでたら死…

茶話指月集と南方録

茶話指月集と南方録。 南方録は、近年は研究が進み、ほとんど偽書として扱われている。 正直、私も偽書だと思う。だが価値が無いわけではない。 前にも似たような事を書いたことがあるが:http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20090614茶話指月集を読み直すと…

タヌキ汁

松屋会記の久政会記を読んでいて、変なものをみっけた。 永禄十二年二月十八日慈尊院法印ヘ 成身院 ホウトウアン 宗リン 久政四人フロニ、ツリ物 手桶 高中 ヤラウイワ竹 汁コマ/\ 引汁タヌキコフ 飯 クワシ三色後段サタウモチ スイ物イテコン 慈尊院が高…

茶過ギテ素麺アリ

後段。後段とは、お茶事が終わってから、別室で宴会することである。 ところが。松屋会記。一番最初の会にこうある。 天文二年 四聖坊ヘ (略) 茶過ギテ素麺アリ 初期茶道の後段の記述は、豪商の酒を使った宴会でなく、素麺のみでシメ。しかも豪商の主催とか…

元旦の茶事

あけましておめでとうございます。 一年の計は元旦にあり。 そこで「元旦に茶事をやった(記録に残る)最初の馬鹿って誰だったんだろう?」と疑問に思ったので調べてみました。 とりあえずこういう時は松屋会記、天王寺屋会記から。 …ありました。宗及他会記に…