読書

日本茶の湯文化史の新研究19

「ぬるき」の用例後半より。 片桐石州の「石州三百ヶ条」に、肌あらきは黒目に持入よし、きめ細かなるは赤目に持入べし、但、つよき釜は黒く、ぬるき釜はさびいろよし、さびいろはつよきものなりと記している。「ぬるき釜」は「さびいろ」にするのがよく、「…

日本茶の湯文化史の新研究18

「ぬるき」について。 茶道具の鑑賞に多く使われた用語は「ぬるき」である。 いうでもなく「ぬるき」は茶道具や、道具立てにおいて、心の至らないこと、未熟な状態を指していることは一応うなずける。 「一応」とわざわざ書く以上は、掘り下げるのである。 …

日本茶の湯文化史の新研究17

「景気」に関連して「景色」の話。 茶の湯の趣向の様体を表わす用語で、現代でも広く一般の茶人の間で用いられているのが「景色」である。 (略) しかしながら、結論を急げば「景色」の使用例は極めて少なく、日本の茶の湯の成立した室町時代中期から江戸時代…

日本茶の湯文化史の新研究16

今度は「景気」について。 「景気」は藤原定家の「毎月抄」に「さらん時は、まづ景気の哥とて、すがた詞のそそめきたるが」とあるように、古来の歌学における用語として頻出する言葉である。 定家は「景気」といって、人の姿や景色、心を表現する言葉などが…

日本茶の湯文化史の新研究15

「とうけた」に附随する、「ひょうげ」と「ひずみ」の話。 「道化」の感覚の意味を考える上で参考になるのが「ひょうげ」(剽軽)と「ひずみ」である。 「ひょうげ」は「ひょうきん」者、ないしは「おどけ」者の意であり、「どうけ」と殆ど同意であると考えて…

日本茶の湯文化史の新研究14

「道化」について。宗及他会記の天正6年12月28日住吉屋宗無の会の飯銅茶入の表現から。 惣別、此壺カルク、サットシタル壺也、コヒタル心ハナク候、ウツクシクキャシャ也、ハナヤカニハナシ、タウケテツヨキココロハナシ (略) 「飯銅の茶入」の評に使われた…

日本茶の湯文化史の新研究13

次に「異風」について。 前出の「津田宗及他会記」の「鶴嘴の花瓶」は千利休の茶会に用いられた茶器として、宗及にとっても極めて強く印象に残った茶器であったことが、彼の詳しい批評からも窺われた。宗及のこの批評の後半に、此花びん、惣別、こびたる物に…

日本茶の湯文化史の新研究12

難しい難しいと言っていても話にならないので、一個づつ考えていくか。 まずは「こびた」について。 「宗二記」の利休秘伝の十ヶ条の冒頭の語は「コヒタ」である。 利休が最も重視した言葉、精神であったとも考えられる。 しかしながら「コヒタ」が現代用語…

日本茶の湯文化史の新研究11

「山上宗二記」(酒井巌氏所蔵本・天正十八年成立(略))に、一 宗易愚拙ニ密伝、就御懇望不残心底、十ヶ条書顕者也、コヒタ タケタ 侘タ 愁タ トウケタ 花ヤカニ 物知 作者 花車ニ ツヨクとあり、この十の語句の精神を体得した人を名人「上手ト云」とある。 こ…

日本茶の湯文化史の新研究10

「学問所」の話。 古来、奈良法隆寺は「法隆学問寺」(「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」)と呼ばれ、遣唐使として派遣された「霊雲、僧旻、勝鳥養」等は「学問僧」(日本書紀巻二十二)と呼ばれた。 この「学問」は、法隆寺で行われる仏教学を指し、また、大唐留…

日本茶の湯文化史の新研究9

「烏鼠集」(略)は、元亀三年(一五七年)成立の四巻から成る。 茶道成立史上では初期のものであるが、管見では、茶人の衣裳について特に項目を設けて記述した茶書の最初である。 (略) 一 衣裳の模様、客は一段きれいに、主人は中程に裏衣ふのりうすくして、な…

日本茶の湯文化史の新研究8

信長と言えば こうして信長は、茶器の価値を高め、武将が下賜されることを切望するように仕向けた。茶の湯を権威・権力への臣従、および主君からの信頼の証と考えさせた。 茶の湯の政治的利用、いわゆる、世にいう「茶湯政道」のひとつの要素である。 「茶の…

日本茶の湯文化史の新研究7

寛永文化は「桃山の残照」といいう、華麗な文化を想像させる言葉で表現される。 歴史の現象をこうした文学的な言葉で表現するのは、歴史の見方を画一化するおそれがあり、充分留意する必要がある。 しかし、寛永文化が桃山文化の残像を持っていたことも頷け…

日本茶の湯文化史の新研究6

石州の将軍茶道師範の名が定着した最も強い要素は、「石州三百箇条」の制定によるものであろう。 (略) この書の成立が寛文五年(一六六五)の将軍への献茶より、むしろ柳営の茶を規定し、師範と称されたという定説の根本的な理由となっている。 というわけで石…

日本茶の湯文化史の新研究5

石州の話。石州が本当に徳川家綱の「茶道師範」だったか?と言う話。 この定説の根拠となっている将軍への献茶史料は「徳川実記」の「厳有院殿御実記」巻三十一(以下「実記」と略す)の寛文五年(一六六五)十一月の条の記載である。 (略) この日片桐石見守貞政…

日本茶の湯文化史の新研究4

んで庸軒の話。それも、茶風について。 まず「正保二年十月廿一日朝小堀遠州殿御茶被下候留書」(「茶道全集」巻五)から考察しよう。 この留書は庸軒が遠州の茶会に招かれた折の覚書である。 (略) この茶会に臨席した庸軒は三十二歳であったが、当時すでに遠…

日本茶の湯文化史の新研究3

宗旦の話。 少庵の子宗旦は、退潮著しい千家の復興を計るべく腐心したことは、「元伯宗旦文書」の多くの「有付」、すなわち息子達の就職に奔走する宗旦の姿から知られることになった。 そして、世にいう「乞食宗旦」の異称が広く喧伝されていたために、清貧…

日本茶の湯文化史の新研究2

織部の茶の湯について。 織部の茶を「ヒツミ、ヘウケモノ」好みと、その特色を一言でいうのが通説となっている。 それは、「宗湛日記」の慶長四年(一五九九)二月二十八日の条に、「一古田織部殿伏見ニテ、御会、(中略)一、ウス茶ノ時ハ、セト茶碗、ヒツミ候…

日本茶の湯文化史の新研究

矢部誠一郎/雄山閣/2006年。茶道系古本屋で良く並んでいる立派な研究書っぽい本。 “新研究”とはなんであろうか?「はじめに」より。 日本茶道史の研究に手を染めてから早四十年の歳月が流れた。 (略) 日本茶道史の中でも、他の人が手懸けていない分野の研究…

数寄空間を求めて7

この火燵、いつの時代に始まるものか定かではない。 しかし、遅くとも室町時代には使われている。まずその例から見ることにしよう。 というわけで突然の火燵(こたつ)の話。 茶の湯と関係なさそうじゃねぇ?ところが。 『蔭涼軒日録』によると、延徳二年(一四…

数寄空間を求めて6

焼火(たきび)の話。 焼火では薪を焚く。 (略) 御湯殿上の焼火は、置囲炉裏で焚かれた。 『御湯殿上日記』文明十七年(一四八五)正月十日の条に「御たき火のおきゆるり、あたらしくこしらへて」とあり、「おきゆるり」すなわち置囲炉裏を作っている。 床を切っ…

数寄空間を求めて5

雪の話。 京の町に初雪が降った。天正十七年(一五八九)十一月十六日のことである。 内裏では、「雪消し」の贈物を楽しんでいる。けさ初雪ふりて、御ゆきけし、なかはしよりいつものことくこしらへてまいる。 ひしひしと、みなみな御ゆ殿御たき火にてまいる。…

数寄空間を求めて4

文明八年(一四七六)元旦。 三条西実隆は、前の晩から宿直していた寝殿を出た。 ということで元禄後水尾サロンを離れ、室町へ回帰。 実隆は紹鴎の連歌の師匠である。 夜は暗く、照明も発達していない。 にもかかわらず実隆たちは、その暗い夜を充分に楽しんだ…

数寄空間を求めて3

花見の続き。その後、土筆摘みというイベントと誹諧発句といろいろ楽しんだあと、「三畳敷の茶屋」に移動する。 承章はこう書いている。 御茶屋に於いて、新院の御振舞なり。御茶の前、御床に筒花入あり、おのおの廻花これあるなり。 花見に廻花か…。花見の…

数寄空間を求めて2

春である。春といえば花。そして花と言えばもちろん桜。 (略) 慶安三年(一六五〇)三月十日、後水尾院の仙洞御所で「御花見」があった。 金閣寺の僧、風林承章の日記『隔蓂記』をもとに、花見の様子を見ることにしよう。 この時代の風流は『隔蓂記』に大きく…

数寄空間を求めて

西和夫/学芸出版社/1983年。サブタイトルは「寛永サロンの建築と庭」。弱冠妄想混じりで寛永の建築ロマンを語る本である。序章は「後水尾院の八ツ橋」。 この橋は何のために作られたのだろう。幅三間弱、長さ七十間ほどの水路に、八つ架かっている。 ひとつ…

宗湛日記と間取りとか

では時代の下がる宗湛日記ではどうか。 五日朝 一宗傳 御會事 座敷二疊半 冒頭からこうである。天正十四年には、茶室はさまざまでありそれを拝見するのも御馳走になっていたんだと思う。 一大和屋立左 御會事フカ三疊 四寸イロリ わざわざ(一尺)四寸の囲炉裏…

天王寺屋と間取り

ついでに天王寺屋他会記に「間取り」が出てくるのはいつだろうか?これまた宗達茶会記にはない。 宗及会記はどうか?天正七年に以下の記述がある。 天正七 卯正月七日朝 於坂本 惟任日向殿會 一 六帖疊敷ニ而、炉 かまなし、 火斗 一 床 八重櫻之大壺あミか…

天王寺屋と炉のサイズ

では、天王寺屋他会記はどうか?天王寺屋の他会記に「炉のサイズ」が出てくるのはいつだろうか?永禄9年までの宗達茶会記にはない。宗及会記はどうか?永禄十年 同十月一日朝 錢屋宗仲會 叱 及炉二尺、アラレカマ、釣テ ついで以下のもの。永禄十一年 同十月…

松屋と間取り

では、松屋会記に「間取り」が出てくるのはいつだろうか?久政会記の永禄十一年(1568年)堺中セウシ松江隆専へ、の会からである。それまで間取りに興味を示していなかった久政が、この年の堺旅行中に「北向四畳半」などと書き記すようになった。天文十一年(15…